アゼル−パンツァ−ドラグーンRPG−に関して


ゲーム自体は簡単すぎてお話になりません。
残念ながら「アゼル」もファイナルファンタジーと同じく、目をつむっていても解けるタイプのコンシューマーRPGである、との烙印を押されることは否定できません。

ただ、そのストーリーに関してです。
自分はそれにけちを付けようというつもりは全くありません、むしろ「良し。」と思いました。

ところが、ネットでこのゲームの評価を見ていると、「ナウシカのパクリである」から「糞」、との意見を散見しました。

「ナウシカ」に極めて類似していることを自分は否定しません。
ただ、ナウシカに類似していると何故いけないのでしょうか。

この世界に存在する小説、映画で(とくに西洋の作品)、新旧両聖書(ヘブライ生まれの教典ですね)・ホメロスの影響を受けていない作品がいくつ存在しますか。
少なくとも名作に値する作品はほとんど聖書のテーマを扱ったものでしょう。
それらは聖書のパクリだといって非難されていますか。

そもそもゲームの世界って模倣ばかりだし、模倣によって進化してきた業界なのでそれについて自分は何とも思いません。
類似について非難できるのは、「ナウシカ」の権利者たる宮崎駿氏だけでしょう。

もしもこのゲームを「糞」と断定したいのならば、「ナウシカ」の方を否定しなくてはいけないのに。
何故そんなことも分からないのでしょうか。
愚かな人々です。



まず、具体的な類似の説明です。

「アゼル」の世界。
かつて繁栄した文明が戦争で滅んだ後の世界で、生き残った人類が攻性生物に脅かされながら細々と生存している。その攻性生物とは旧文明の科学者達が世界を守り、人類をコントロールするために人工的に作り出した存在であり、「塔」には世界を復興し、人類を再生させるための旧文明の技術が保存されている。

「攻性生物」を「腐海」と「虫」に、「塔」を「墓所」に変えると「ナウシカ」そのものです。

だから「ナウシカ」について考えるならば、「アゼル」のことも分かるわけです。
端的にナウシカの主題に関わる場面を上げますね。
コミックスの第7巻を参照してください。

ナウシカと墓所の主との対話の場面です。
墓所の主は世界の再生のために、ナウシカに自分に協力することを要求します。
ナウシカはそれに「否」と答えます。
世界を再生するための道はどう考えても墓所の主に協力する事しかないにも関わらず。
ナウシカはここで人類を滅ぼすことを選択したわけです。

ナウシカはこういいます。
以下の引用文において()括弧内は、指示語等の前後関係を明らかにするため私が記入するものです。

生命は己の意志によって生きてゆくところに価値がある。
たとえ旧世紀の文明の手のひらの上で踊っているにすぎないとしても。
これがナウシカの言葉の大要です。

この言葉で、「旧世紀の文明」を「神」もしくは「絶対者」に置き換えてみてください。
とたんに普遍性を持ったテーマとなるはずです。


シシュポスの話をご存じですか。

彼は大きな石を山の頂まで転がして行かなくてはなりません。
けれども石はそのたびに、山の反対側に転がり落ちます。
彼は再びこれを頂まで運び上げねばならず、また石は転げ落ちます。
永遠に彼はこの定めから逃れられません。

古代ギリシャ人はこれを地獄と考えました。
しかし、この逸話に新たな意味を付与した人物がいます。
カミュですね。
彼はこの永劫の連鎖の中に、人間の尊厳を見いだしました。
絶対者の存在とは無関係にです。
人間存在そのものの肯定ですね。

「ナウシカ」も同じです。
ナウシカは人類の尊厳を唄ったわけです。
「アゼル」もこのテーマだったわけです。
どうして「アゼル」を糞といえましょうか。


追記
「風の谷のナウシカ」の原作者、宮崎駿氏は連載終了後に「東洋経済」かなんだかの雑誌のインタビューの中でこう語っておられます。

自分に「ナウシカ」のストーリーを完結させるだけの力はなかった。
連載終盤はまさにはいつくばるようにして進んだ。




難しいテーマですからね、私の如きにどうこういえる問題ではありません。


戻ります。